講談社 類語大辞典
【編者】柴田武 山田進
【書名】類語大辞典
【出版社】講談社
【発行】2002年11月19日第1刷発行
【ISBN】4-06-123290-8 C0581
【価格】6500円
(税別、2002年12月時点)
講談社より、2002年11月に新しい類義語辞典が発売された。このことは、基本的に歓迎すべきことである。仕事 で文章を書かなければならない(業務で メールをやりとりすることを含めて)人間にとって、自分の知らない単語や言い回しを教えてくれる類義語辞典というものは、非常に有り難いものである。しか しながら、ワープロソフトに必ずシソーラス辞書が付属する英語圏と違い、この望みは日本ではなかなかかなえられなかった。これまで発売されていた類義語辞 典には良いものが見あたらなかったからである。有名なものといえば、角川の類語新辞典、小学館の類語例解辞典、他に東京堂のものなどがあった。最初の角川 は労作ではあるが語彙分類が独特で探しにくく、また小学館はどちらかというと言葉探しというより類語の使い分けを詳しく説明した辞書である。東京堂は本当 に単語の羅列をしただけに近いものである。
そこにこの「類語大辞典」が新しく出版されたわけである。項目数7万9000でこれまでで最大の語彙を謳っており、いやがうえにも期待は高まる。そこ で、発売とほぼ同時に入手したのであるが、残念ながら期待は失望に変わった。
以下は、amazon.co.jpの同書のレビューに、当HP管理者が投稿した内容である。このレビューと同時に、別の国語辞書に対するレビューも投稿 している。同時に投稿したにもかかわらず、下記のレビューは無視され、別の国語辞書へのレビュー(比較的好意的なもの)のみが掲載された。 amazon.co.jpのレビューで掲載されるものはどうやら褒めたものだけのようである。抗議の意味もこめてここに転載する。
5つ星中の2つ星
とても使いにくく、混乱した辞書。
多数の執筆者が分担して書いており、それによって細部と全体の統一感がない。これは当初の編集方針が十分考えられていなかったため、と編者の山田進氏が自 ら認めている。
「入れる」を50音順で引いてみると、5箇所も出てきて、実際に一つ一つ引いてみると「受け入れる」だったりと実に使いにくい。「ありがとう」を引きたく ても、この項目は独立項目としてはなく、「感じる」の中に入れられており、しかも「感謝する」とは別の場所になっている。また、「生きる」の中に「無機」 「無機的」のような反対語系の言葉まで何の説明もなく収録されている。
品詞の分類も、かなり強引で、例えば「来る」の項で、「来社」や「来所」は動詞に分類され、「来駕」「来車」は名詞に分類されている。
国語辞典としての語釈も統一感なくかつ独特で、他の辞書で再確認しないととてもそのまま信用する気になれない。表記も「遣って来る」のようにやたらと漢字 を多用しており、疑問が残る。
ともかくも、「引きにくい」のである。編者の柴田武氏は、序言で従来の類語辞書が、「ありがとう」の類語として単語を羅列しただけだと批判するが、その 「ありがとう」を引くといった基本機能について、この辞書は使い勝手が非常に悪い。これでは従来の辞書の建設的批判になりえていない。
柴田武氏は、序言でさらに、この辞書が類義語辞典と国語辞典を兼ね備えたものであり、「日本語の辞典としてこれ一冊で十分」と自信をもって言い切ってい る。実際はどうかというと、上のレビューでも触れた通り、あちこちでおかしな語釈に出くわす。たとえば、「愛する」をこの辞書は「自分にとって大切だった り、関心のあったりするものについて、それをかけがえのないものとして、自分のものにしたいとか、それについて情報を得たいとか、それに接していたいかと か思う。」としている。なんだか、つぎはぎしたような総花的な説明である。さらに笑えてしまうのは、そのすぐ後に続く用例が「孤独を愛する」「祖国を愛す る」となっていることである。「孤独についてそれを自分のものにしたいとか、それについて情報を得たいとか思う」人がはたしているのだろうか。
また、「思う」という言葉については、「恋する」と「思う 見込む」の2つの項目に分かれ、それぞれ「『恋する』の控えめな言い方」、「すでにわかって いる事柄になんとなく、また情緒的なはたらきかけをする」となっている。最初の方はまだしも、後の方はかなりひどい。「また情緒的な」を取ってしまうと、 「なんとなくはたらきかけをする」となる。これが辞書の日本語だろうか。曖昧でさっぱり意味がわからない。また、岩波国語辞典第五版では「思う」の項に、 「『考える』は知的な面に限られるが、『思う』は情的・意志的でもよい。」と書いてある。つまり必ずしも情緒的な精神活動に限られる言葉ではないのに、こ こでは「なんとなく、または情緒的」で済まされてしまう。この辞書の語釈の適当さがよくおわかりいただけたかと「思う」。とてもこの辞書一冊で済ませてし まえるようなものではなく、信頼できる国語辞典と併用することが必須である。
本辞書は、総勢50名を越える執筆者によって書かれている。その中には国語学者や方言学者で有名な方も何人か見つけることができる。しかしながら、そう した執筆者のレベルに対して、編者の山田進氏の全体構成力・設計力は、はっきりいって低い。そのことは上のレビューでも触れた通り、「この辞書の成り立 ち」という部分で山田氏自らが認めている。シソーラスとしての全体設計が破綻しているのである。
(2002年12月3日記)
追記(2002年12月7日)
「著作」という言葉の類義語を探すために、この辞書を見ていたら、「ライトモチーフ」という単語があった。その語釈であるが、「文学作品の基調をなす主 題」とだけあった。そういう使われ方も確かにされなくはないが、本来は音楽用語であり、ワーグナーの楽劇などで、登場人物それぞれを特徴づけたり、ある情 景を示すような主題(旋律)のことである。手元の新明解第五版、三省堂国語辞典第五版、明鏡国語辞典のどれも、まず音楽用語としての意味を第一に載せてい る。たとえば「遠近法」という絵画の技法があり、これは文学上の技法としても比喩的に使用される。しかしながら、国語辞書で「遠近法」の意味を記述すると すれば、当然「絵画の技法として」が真っ先に来なければならない。それと同じである。
このように、ちょっとぱらぱらめくるだけで、いくらでもおかしな語釈が見つかる。この辞書は、(1)全体の設計の破綻(2)校正レベルの低さの2点で商 品としての辞書の品質に到達していない。「主幹」でも「監修者」でもなく、「編集」となっている柴田武氏の責任を問いたい。また、何をもって「日本語の辞 典としてこれ一冊で十分」と言い切れるのか、その根拠を伺いたい。
再追記(2004年3月4日)
講談社類語大辞典を、徹底的に批判した本が登場した。その名も「講談社『類語大辞典』の研究―辞書がこんなに杜撰でいいかしら」。 (洋泉社) 著者は、西山里見という人で、以前、新明解国語辞典をやはり批判した本を出した人らしい。早速一読して、快哉を叫んだ。私が当ページで紹介した、この辞書 の(1) 類語辞典としての構成の破綻、(2) 国語辞典としての語釈のおかしさ (3) 校正レベルの低さ、がこれでもか、というぐらいに例を挙げて明解に説明されている。著者はおそらく、かつて国語辞書の編集に携わっていたのだと想像する。 この「憂国の老人(クレーム爺さん?)」には、辞書編集者の実力の低下、出版社の志の低下、そして学者たちの曲学阿世ぶりがどうしても許せないらしい。確 かに、天下の大出版社が企画し、東大名誉教授以下錚々たる日本語学の先生方が編集にあたり、さらに井上ひさしや俵万智といった「日本語業界の有名人」が絶 賛する辞書が、ここまでひどいとは、日本は一体どうなるんだと思わない方が鈍感と言えよう。
故山本夏彦老の遺言のようになったシオランの言葉「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ。それ以外の何ものでもな い。」が正しいとすれば、この国はまさに滅びに向かっているのである。私には、この西山老が、「関東防空大演習を嗤う」を書いて信濃毎日新聞主筆の座を追 われ た桐生悠々と重なるような気がする。日本が敗戦の憂き目を見たのは、悠々がこの一文を世に問うてからわずか11年後のことであった。
ホーム