ポーランド人姓「-ski、-cki」のカタカナ表記
ロシア(白ロシア)、ウクライナ、ポーランド、チェコ、スロバキアなどの広い範囲のスラブ語圏にわたって、「〜スキー」が語尾につく人姓が多く分布している。ちょっと思いつくだけでも、「ドストエーフスキー」「チャイコフスキー」「ストラヴィンスキー」のロシア系、「シマノフスキー」「パデレフスキー」「ストコフスキー」といったポーランド系、またあまり日本では有名な人はいないが、チェコにも「〜スキー」姓は多数存在する。この姓は、スラブ諸語では「生格」という一種の所有格を表し、「〜スキー」で「〜の生まれの」といった意味を示すものである。日本でも姓は地名に結びついていることが多く、「阿波の十郎兵衛」といった言い方が存在する。これと同類らしい。ちなみに、本来はこのパターンの姓は貴族のものだったらしい。どこにでもありがちだが、勝手に自分でこの種の姓を名乗る人がたくさんいて大衆化したものらしい。
この「〜スキー」は、ロシア語では「−ский」と表記し、ポーランド語では「-ski」と表記する。一方、チェコ語では、「」である。(最後のyは上にアクセント記号がついている。)奇妙なことに、上記のようにスラブ語族共通の姓であり、発音もほぼ近似すると思われるのに、ロシア系やチェコ系に対しては語尾を長音符付きで「〜スキー」と表記し、ポーランド人(≠ポーランド系、詳しくは後述)に対してのみ、「〜スキ」と語尾を伸ばさない形で表記する習慣が一部の日本の出版社やマスコミ(新聞社他)に存在する。「シマノフスキ」「パデレフスキ」といった形の表記を、皆様もどこかで目にしている筈である。
まずは、百論は一聞に如かず、ポーランド語でこの「-ski」をどのように(短音か長音か)発音しているかである。
http://www.polishroots.org/surnames/surnames_endings.htm に、おそらくポーランド人による、この姓に関する詳細な解説がある。それによると、この部分の発音を英語風に書くと「-skee」となるということである。eを重ねて書いているということは、英語での"bee"や"see"と同じで、短音より長音に近いと解釈すべきと思う。また、Web上にポーランドのラジオ放送の録音(http://www.scola.org/insta-class/polish/index.html)があったが、"kultury Andrzej "(チェリンスキー文化相)の部分を聞く限りでは(音が悪いがwavファイル参照)、何度聞いても、「〜スキー」と長音にしか聞こえない。これを発音しているのは、訓練を受けたと思われるアナウンサーだが、少なくとも意識的に語尾を短くしようとはしていない。
他に状況証拠として、ポーランド語と同じ西スラブ語族に属するチェコ語では上記のように「」と、語尾のyをアクセント記号付きで表記するが、このアクセント記号は、強く発音する印ではなく、長さを2倍にする「長音記号」である。またロシア語の「−ский」の方も、この「−ий」という語尾は、形容詞の「長語尾」形と呼ばれており、明らかに長音である。ポーランド語のみ、この「-ski」を短く発音するという証拠はどこにも見いだせていない。
実際の発音が長音に近いと思われるのに、ポーランド人に対してのみ、「〜スキ」と短音表記を使う理由は、
- 単純に表記に「i」しかなく、ロシア語の二重母音表記とも、チェコ語のアクセント記号付き表記とも 違うので、字面上短音で合わせた。
- ポーランド語は強弱アクセントが主で長音が存在しない、という立場から。このためポーランド語の入門書などでも、短音表記が多く採用されている。しかし、実際には上記の放送録音のように、長音は存在する。 明示的な長音表記が行われていないだけと思う。(ポーランド語はラテン語の影響を強く受け、文字としてもラテン文字を採用している。ラテン語では、主格のfamiliaの語尾は短音、 奪格のfamiliaの語尾は長音など、同じ表記で短音になる場合と長音になる場合とがある。従って、ラテン語には二重母音以外は、明示的な長音表記は存在しなかった。16世紀と、かなり近代になってラテン文字を採用したポーランド語は、独自の長音表記を発展させる時間がなかった、というべきだと思う。)
の2つのどちらかだと思う。ポーランド語に閉じた世界では、短音表記もよいが、スラブ圏共通の人姓のようなものを扱う辞書や事典類ではこうした表記揺れは問題だと思う。
ちなみに、この「-ski」の同類に、「-cki」がある。前に来る文字の関係で発音が変化しただけで、まったく同種の姓である。ロシア語では、「−щкий」となる。こちらにも同じ問題があって、「トロツキー」「カウツキー」「ラデツキー」のように、ロシア系他(カウツキーはドイツ人、ヨハン・シュトラウスの行進曲で有名なラデツキー将軍はチェコ系)には「〜ツキー」と表記し、ポーランド人のみ「ペンデレツキ」「グレツキ」のように「〜ツキ」と表記する奇妙な習慣がやはりある。
この手のポーランド人短音表記の習慣を持ち込んだのは、岩波書店の「西洋人名事典」らしい。この本の現物は手元にないが、国語辞書の広辞苑(第5版)にその影響が見て取れる。つまり「ストラヴィンスキー」「ドストエーフスキー」などの一方で、電子版で調べる限り、次の2人にのみ「〜スキ」を使っている。「パデレフスキ」(19世紀のパリで活躍したポーランド出身のピアニスト)「シマノフスキ」(19世紀ポーランドの作曲家)である。非常に奇妙なことに、同じポーランド系である「ストコフスキー」(有名な指揮者、父親がポーランド人)は長音表記、また「マリノフスキー」(ポーランド出身の文化人類学者)も長音である。ちょっと考えると、「純」ポーランド人は「〜スキ」、ポーランド系は「〜スキー」と使い分けているようだが、よくよく考えれば、パデレフスキーやシマノフスキーは19世紀に活躍した人であり、その時代にはロシア領ポーランドしか存在せず、「純粋な独立国家の」ポーランドは不幸なことではあるが、存在していない。また、パデレフスキーはパリで活躍し、スイスに在住していたので、広辞苑式なら「〜スキー」でなければならない。実は広辞苑は、1972年出版の第2版では「パデレフスキー」である。どこかで方針変更してこのような奇妙なことになったらしい。なお、広辞苑第5版には「ピウスーツキ」というポーランド人名(2名、兄弟)も収録されている。このことで、広辞苑が「ポーランド人姓に長音表記を採用しない」という原則にも立っていないことがわかり、ますます奇妙である。
世界大百科事典や、日本国語大辞典、大辞林などは、「-ski」については、統一して長音であり、「シマノフスキー」「パデレフスキー」「ストコフスキー」「マリノフスキー」である。おめでとう。しかし同系の姓の「〜ツキー」については、「トロツキー」「カウツキー」「ラデツキー」を採用する一方で、「ペンデレツキ」「グレツキ」などとやって馬脚を現してしまう。いかに、日本の辞書・事典類が適当かが、この例でよくわかると思う。
なお、ポーランド語の固有名詞のカタカナ表記については、上記以外もたくさん問題がある(例:「ワレサ→ヴァウェンサ」)ようだが、ポーランド語の専門家ではないし、現地に行ったこともないので、ここでは採り上げない。興味があれば調べてみて欲しい。
(2003年11月24日)