ハイデルベルク訪 問記と拙第2論考への 若干の補遺

t-maru
2004年10月10日

   2004年9月19日から、私的な観光目的で1週間ほどドイツを旅してきました。その旅程の中で、9月20日にハイデルベルク大学を訪問しました。その目 的は、

   1. ハイデルベルク大学図書館が1900年頃どの程度の水準にあったかの調査→ヴェーバーが倫理論文を書くにあたって、どの程度の資料を参照できたか
   2. ハイデルベルク大学図書館に現在ある英訳聖書の調査
   3. ヴォルフガング・シュルフター教授(ハイデルベルク大学社会学研究所)への面会→折原先生に勧めていただいて、紹介いただきお会いしたもの

の3点でした。まともにドイツ語を話すのは、ほぼ大学卒業以来であって、 かなり会話力が低下しているため、図書館用と、シュルフター教授への説明用に、次の2つの資料をドイツ語で書いてもっていきました。(書く力もかなり落ち ていて、文法や綴りの間違いはたくさんあると思われますが、その点はご寛恕ください。)


(1)図書館への質問票
Die Dispute über Max Weber in Japan: Ist Max Weber ein Verbrecher oder ein Betrüger ?

Im September 2002 in Japan, ein Buch, das "Das Verbrechen von Max Weber" hieß, wurde herausgegeben. Der Autor des Buchs ist Dr. Tatsuro Hanyu, ein Doktor der Ethik an der Universität Tokyo.
Das Buch wurde dann mit einem Preis ausgezeichnet von der PHP-Stiftung, die die Firma Panasonic, eine der grßöten Firmen in Japan, finanziert.

Das Buch behauptet, dass Max Weber nicht direkt die primären Forschungs-Stoffe genug gebraucht habe, sondern hauptsächlich die zweiten Stoffe oder nur die Wörterbücher nachgeschlagen habe, wenn er den berühmten Aufsatz "Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus" geschrieben hat. Als er, z.B., über das englische Wort "calling" (= auf Deutsch "Beruf") forschte, habe er nicht die originellen englischen Bibeln wie "Geneva Bibel" nachgeschlagen, sondern habe er nur ein Wörterbuch wie "OED" (Oxford English Dictionary) benutzt.

 Trotzdem seine Behauptungen voll von Unsinn und manchmal sehr komisch sind, haben manche Leute und eben einige Wissenschaftler in Japan dieses Buch sehr gelobt. Ein Japanischer Forscher des Max Webers, der Hiroshi Orihara heißt, sorgte sich darum sehr, und er hat ein Buch der Widerrede geschrieben. Er hat dann auch an einem Forum auf Internet teilgenommen, und dort hat er manche Aufsätze ausgestellt. Weil ich an der Uni von ihm über Max Weber gelehrt wurde, teilte ich auch am Forum ein.

 Mein Interesse ist:

 (1) Wie war das Niveau der Bibliothek der Universität Heidelberg in der Zeit von Max Weber, d.h., am Ende des 19 Jahrhunderts ?
Wie viel Bücher hatte die damalige Bibliothek hier? War das Niveau besser oder schlechter verglichen mit z.B. dasjenige der Universität Berlin?

(2) Universität Heidelberg ist berühmt mit seiner theologischen Fakultät. Hat die theologische Forschung hier auch gut das Gebiet von englischen Bibeln gedeckt?
Die Frage ist einfach, ob Max Weber hier an der Uni Heidelberg die originellen englischen Bibeln in den 16-17 Jahrhunderten nachschlagen konnte oder nicht.


(日本語訳)
マックス・ヴェーバーに関する日本での論争:マックス・ヴェー バーは犯罪者か嘘つきか

2002年9月に日本において、「マックス・ヴェーバーの犯罪」という名前の本が出版された。著者は羽入辰郎で、東京大学倫理学の博士である。
その本は、日本でも最大の会社の一つである松下がスポンサーとなっているPHP財団によって、ある賞を授与された。
その本では、マックス・ヴェーバーが、有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の論文を書いた時に、第1次資料を直接には十分参照せず、 もっぱら2次資料やあるいは辞書の類だけを参照したと主張している。たとえば、ヴェーバーが英語の単語の"calling"(ドイツ語でBeruf)を調 べた時に、「ジュネーブ聖書」のようなオリジナルの英訳聖書を参照せずに、OEDのような辞書だけを参照したとしている。

羽入の主張はナンセンスに満ちており、多くの箇所で滑稽なのにもかかわらず、何人かの学者を含む多くの人々が、この本を非常に称賛した。日本のヴェーバー 研究者である折原浩氏は、この事態を非常に憂慮し、反論の書籍を出版した。さらに折原氏は、インターネット上のフォーラムに参加し、そこでさらに多くの論 考を発表した。私は、大学で折原氏よりヴェーバーについて教わったため、私もこのフォーラムに参加している。
私の関心は、

(1)マックス・ヴェーバーの時代、つまり19世紀末に、ハイデルベルク大学の図書館の水準はどの程度であったか。
当時の図書館の蔵書数はどのくらいであったか。その水準はたとえばベルリン大学のそれと比べて良かったのか悪かったのか。

(2)ハイデルベルク大学は神学部で有名である。その神学的研究は、英訳聖書の分野も十分カバーしていたのか。
質問は単純に言えば、マックス・ヴェーバーがここハイデルベルク大学で、16-17世紀のオリジナルの英訳聖書を参照できたのかどうかということ。


(2)シュルフター教授への説明資料
„Das Verbrechen von Max Weber“ wurde herausgegeben aus Minerva Verlag in Japan im September 2002.  Der Autor hieß Tatsuro Hanyu, der in 1953 geboren ist und den Doktortitel der Ethik in 1995 an der Universität Tokyo bekam.  Das Buch basiert auf seine Doktorarbeit „Quellenbehandlung Max Webers in der, ‚Protestantischen Ethik’“.

Das Buch besteht aus 4 Kapitel.  Obwohl es Max Webers „Ethik“-Aufsatz behandelt, stellen die allen 4 Kapitel lediglich den ersten Teil des Ethikaufsatz als die Objekte der Forschungen. Nämlich, das erste Kapitel ist über die Quellenbehandlung für den Begriff „calling“ in den englischen Bibelübersetzungen. Das zweite Kapitel behandelt nun die Luthers übersetzungen der Bibel, besonders den „Beruf“ Begriff.  Das dritte Kapitel ist über die Autobiographie von Franklin.  Das letzte Kapitel handelt sich um den Geist des Kapitalismus und das Missverständnis [sic] von Hisao Otsuka (ein berühmter Weberforscher in Japan).

Der Autor zeigt kein Interesse für die hauptsächlichen Streitpunkte des Ethikaufsatzes , sondern er argumentiert nur, wie Max Weber die Quellen für seine Forschungen behandelte, oder ob er sich auf die ersten Stoffe der Forschungen in Wirklichkeit berief oder nicht. Hanyu behauptet, dass Weber in vielen Orten die ersten Stoffe nicht direkt nachgeschlagen habe, einmal weil er untreu gewesen habe, ein anderes Mal weil er die Leser betrügen möchte. Das Buch von Hanyu sei also, wie er behauptet, nicht die soziologischen, sondern die philologischen Forschungen.

Wenn wir sachlich eins nach dem anderen seine Standpunkte bestätigen, können wir fast allen Streitpunkten sehr leicht widersprechen. Also veröffentlichte Prof. Orihara einen Aufsatz für den Widerspruch im April 2003, und dann gab auch ein Buch im Dezember 2003 heraus. Trotz des richtigen Widerspruchs von Orihara, wurde das Buch von Hanyu sehr hoch gelobt von vielen Leuten, die die einigen Wissenschaftler enthalten, und auch viele „Genießmenschen“ in Japan hießen das Buch Willkommen eben als eine Art von „Krimi“. Das Buch hat schließlich eben einen Preis (Shichihei Yamamoto Preis - PHP Stiftung) bekommen. Der Hauptprüfer des Preises war Prof. Takeshi Yoro, ein sehr berühmter Anatom und der Autor des vielen Bestsellers vor kurzer Zeit in Japan.

xxxx xxxx, ein Assistenzprofessor an der Universität xxxx in Japan, hat eine „Homepage“ für die offenen, unparteiischen Disputationen zwischen Prof. Orihara und Hanyu, und auch für die freien Diskussionen zwischen den Forschern von Weber, im Januar 2004 vorbereitet. Dort kann man jetzt mehr als vierzig Beiträge, die circa 20 Aufsätzen von Orihara enthalten, finden.  Von der Seite des Hanyus, aber, hat es bis jetzt keine Beiträge gegeben worden, ausschließlich eines Gesprächberichtes auf einer Zeitschrift „Voice“, die die PHP Stiftung auch publiziert. Der Bericht ist gar nicht wissenschaftlich, sondern sensationell und politisch.

(日本語訳)
「マックス・ヴェーバーの犯罪」は、2002年9月に日本でミネルバ書房より出版された。著者は羽入辰郎といい、1953年生まれで、1995年に東京大 学で倫理学の博士号を取得している。この本は羽入の博士号論文である"Quellenbehandlung Max Webers in der, ,Protestantischen Ethik’“に基づいている。

この本は4つの章から成っている。同書は、マックス・ヴェーバーの「倫理」論文を扱っているが、4つの章すべてが、倫理論文の前半部のみを研究の対象とし ている。つまり、第1章は、英語への聖書翻訳における、callingという概念についての資料の取り扱いについてである。第2章は、ルターの聖書翻 訳、特にBerufの概念を扱う。第3章は、フランクリンの自伝についてである。最後の章は、資本主義の精神と大塚久雄(日本の有名なヴェーバー学者)に よるその誤解[sic]を取り上げている。

この著者は、倫理論文の中心的な論点にはまったく興味を示さず、ただマックス・ヴェーバーがどのように研究のために資料を取り扱ったか、あるいはヴェー バーが研究にあたって実際に1次資料を参照したか否かだけを論じている。羽入はヴェーバーが多くの箇所で1次資料を直接参照しなかったと主張していて、そ れはある時はヴェーバーが誠実でなかったからであり、またある時はヴェーバーが読者をだまそうとしていたからだという。羽入の本はしたがって、本人が主張 するところによれば、社会学的な研究ではなく文献学的研究である。

羽入の主張する論点をザッハリヒに1つ1つ検証していくと、ほとんどすべての論点で簡単に反駁することができる。それ故、折原教授は2003年4月に反論 を発表し、さらに同年12月には書籍を公刊している。折原による正当な反論にもかかわらず、羽入本は何人かの学者を含む多くの人から非常に高く評価され、 また多くの日本の「享楽人」は、羽入書を一種の「推理小説」として歓迎した。同書はついには、ある賞(山本七平賞−PHP財団)を受賞することとなった。 その賞の選考委員代表は、有名な解剖学者で、最近たくさんのベストセラーの著者でもある養老孟司である。

XXX大学助教授のXXXは、折原教授と羽入の間での議論のため、あるいはまたヴェーバー研究者の自由な議論の場として、公開の、中立的なホームページを 2004年1月に開設した。これまでに、40以上の論考が寄せられており、そのうち約20は折原教授からのものである。しかし、羽入の側からは、これまで に何の論考も寄せられていない。例外的に、VoiceというやはりPHP財団が主宰する雑誌の対談記事があるが、その内容はまったくもって学問的なもので はなく、扇情的で政治的なものである。



  前置きが長くなってしまいましたが、まずは、ハイデルベルク大学図書館を訪問した結果です。左の写真が大学図書館の正門ですが、ここを入っ た1Fの奥 にあ る情報センターで、上記(1)の質問票を見せたところ、質問の(1)には、司書の方が手元の本を見て即答してくれました。それによれば、ハイデルベルク大 学の蔵書数は、

1900年
大学図書館
約50,000冊

各研究所
不明
2004年
大学図書館 約350万冊

各研究所 約350万冊

とのことでした。(残念ながら、私のミスで、典拠資料の書名を聞き漏らしました。)
現在のハイデルベルク大学には図書館と各研究所を合計して実に700万冊もの蔵書があります。これはベルリンにあるドイツ国立図書館の500万冊を上回る 規模です。

  それに対し、1900年、つまりヴェーバーが倫理論文について研究を進めていた頃は、大学図書館だけしかわかりませんが、わずか現在の 1/70の規模 の 蔵書数にすぎません。ちなみに、1999年時点でハイデルベルク大学の学生数が約28,000人であると、大 学を紹介するZDFのビデオでは言っています が、この数は、1889年にイェリネックがハイデルベルク大学に就任した時の、ハイデルベルク全体の人口と同じです1)(現在のハイデルベルクの人口は約14万人です。)1900年頃の学生 数はわかりませんが、人口からして多くても2000〜3000人程度ではないでしょうか。いずれにせよ、 ヴェーバー当時のハイデルベルク大学は、図書館の蔵書数から見て、今日に比べれば研究環境としてははるかに劣悪でした。なお、ベルリン大学との比較につい ては、ここでは情報を得ることが出来ませんでした。(比較のために記せば、羽入氏の在籍する青森保健大学の附属図書館の蔵書数は同校のHPにある資料によると、2001年7月時点 で55,000冊であり、1900年当時のハイデルベルク大学図書館よりも数は優っています。羽入氏はどこかで、青森保健大学の図書館に資料が少ないので 反論ができない、と語っていましたが、これはしてはいけない言い訳の見本でしょう。)

  2番目の質問である、ハイデルベルク大学図書館における、英訳聖書についてですが、それについては"Abteilung Handschriften und Alte Drucke"(手稿本と古い印刷本の書庫)に行け、と言われました。(こう書くと何かたらい回しされているような印象を持たれるかも知れません が、そん なことはなく、日本からわざわざやってきた物好きの部外者に、ハイデルベルクで会った方々は例外なくとても親切でした。私の古巣の東京大学図書館では、ま ずメールや電話で問い合わせ・申し込みをしてからでないと、部外者は中に入れてくれさえしないようです。なんという違い!)上記のAbteilungに行 き、そこの司書の人と話しました。即座に、英訳聖書に関しては"nur wenig"(ほとんどない)という回答でした。蔵書カタログを見た方がいいと言われ、その司書の人が、カタログコーナーまで連れて行ってくれて、該当の 巻まで出してくれました。それが右の写真です。

  そのカタログを検索した結果が以下の通りで、蔵書350万冊を誇る現在のハイデルベルク大学図書館でも、英訳聖書の蔵書カードはわずか11種しかあり ませんでした。

 1. Coverdale 聖書1535年のファクシミリ版 1975年出版
 2. Geneva 聖書1560年のファクシミリ版 1969年出版
 3. 1599年London Christph. Bakrer版英訳聖書、四つ折り版
    1659年8月、同出版社版
 4. 欽定訳聖書1611年版 1903年ロンドン出版
 5. 英訳聖書 ロンドン1659年John Field and Henry Hills出版
 6. 聖書(たぶん欽定訳)1612年、The Book of common prayer 1611年ロンドン、Rob. Parker出版
  (たぶんRobert Barker の間違い)
 7. 英訳聖書、1717年オックスフォード
 8. 英訳聖書、1746年ライプチヒ
 9. 英訳聖書、1804年ロンドン(ケンブリッジ1804年、ロンドン1814年)
10. 英訳聖書、欽定訳、1823年ケンブリッジ
11. 英訳聖書、1855年ニューヨーク



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(蔵書カードの写真はクリックすればより大きなサイズで表示されます。)


  上記の蔵書状況から見て、ヴェーバーの時代に、オリジナルの英訳聖書を見ることは、羽入氏が脚色気味に書いているように、研究者なら見て当然といった ものではなく、それを見ること自体が非常に困難であった、ということが窺えます。現在ではファクシミリ版(本物そっくりに複製して出版したもの)が存在し ていますが、1900年当時そんなものはありませんでした。

  ということで、当初の目的である、ヴェーバー当時の研究環境を推定するという意味では、ほぼ予想通りの結果を得ることができました。しかしながら、話 はここでは終わらず、思いがけない展開を見せます。カードの中の、3番、1599年Christph. Barker版というのが、引っかかりました。この聖書はこれまでの調査では1度もお目にかかっていないものです。しかも、1599年というのはエリザベ ス女王の治世です。筆 者の前稿では、「コリント 7.20を"vocation"と訳したもう一つの例外聖書とはどの聖書か」という問題の解決を保留としましたが、どうやらここに「導きの糸 Leitfaden」が現れたようです。

 日本に戻ってから、以前入手していた、Alfred W. Pollardの"RECORDS OF THE ENGLISH BIBLE"
2)を改め て調べました。この書籍は、田川建三氏の本3)の 中で、「聖書の英語訳の歴史について標準の教科書」として紹介されているものです。それに よれば、Christph. Barker は、正確には Christopher Barker で、エリザベス女王の時代に、王室の聖書を含む各種印刷物の印刷を独占した出版商兼印刷屋です。その息子が、Robert Barkerで、欽定訳の印刷はこの息子の手によるものです。息子の方は、後に有名な「姦淫聖書」という誤植事件(モーセの十戒の「汝姦淫するなかれ」の notを落として「汝姦淫せよ」にしてしまったもの)を引き起こし、その罰金が払えず刑死します。4)このPollardの本の中に、父親のBarkerの方 が、1575年6月9日に、Juggeという別の印刷商(Barkerの前に権利を持っていた)にあてて、王室向けの印刷の独占権を得ることができたこと についての感謝状(Barker's satisfaction to Jugge)が収録されています。その一部を画像で紹介します。(Pollardの正確な没年は不明ですが、{編集}著作権=没後50年、は切れていると 判断して います。)

  

Barker(父)はここで、王室向け聖書として2種類の聖書の印刷独占権を得たと言っています。1つは、いわゆるジュネーブ聖書1560年版です。もう 一つ が、フランスの同じく印刷商である、Thomas Vautrolierが権利を持っている、「ラテン語から訳された英訳聖書」です。この1575年というタイミングでは、まだランス・ドゥエのカトリック 訳聖書は存在していません。これこそまさにヴェーバーの言う、「エリザベス朝のイギリス国教会の宮廷用聖書(複数)」でしょう。エリザベスは、 Barkerに、色々な国教会の儀式用に、大きさや装丁を変えた多種の聖書を印刷させているようです。その意味で複数になっているものと思われます。な お、ハイデルベルク大学の1599年のBarker版聖書が、ジュネーブ聖書とラテン語からの英訳のどちらなのかは、現物を見ていないのでわかりません が、タイトルから見て、ジュネーブ聖書とは異なるものである可能性が高いと判断しています。また例の箇所の訳語が"vocation"になっていること を、帰国後ハイデルベルク大学図書館にメールで再問い合わせして確認しました。

  「エリザベス朝のイギリス国教会の宮廷用聖書(複数)」がこのBarker版のラテン語からの英訳聖書である、というのをより明証性の高い仮説として 再提示します。筆者による前回のファルク本仮説は取り下げます。なお、折原論考の「「末 人」の跳梁 ――羽入「ヴェーバー詐欺師説」批判結語(1−2)」で折原氏は「つまり、「エリザベス時代の英国国教会宮廷用聖書[複数]」とは、公刊された聖 書ではな く、エリザベス祇い、国教会の統一公認聖書の編纂をめざしながら、数種つくらせて宮廷で使って試していた、いわば宮廷私家版の聖書ではあるまいか。」と いう仮説を提示されていますが、この仮説が正解に近かったことになります。なお、羽入氏は「……この恐るべき『ジュネーヴ聖書』を『エリザベス女王時代の 英国国教会の宮廷用聖書』と呼び、またカトリック聖書と並べて『ヴルガータにならって再び“vocation”に戻っている』などと称するのはほとんど考 えがたい錯誤なのであるが」と書いていますが、事実は、上記のBarkerの手紙にもあるように「王室御用達」の印刷商が、ジュネーブ聖書を大量に印刷し ていたのであり、おそらくはその一部は宮廷でも使用されたものと考えられます。また、ついでに言っておけば、ジュネーブ聖書自体も、1576年に、 Lawrence Tomsonによる改訂版が出版されています。5) 1557年版ジュネーブ新約聖書をジュネーブ聖書ではない別物として区別する羽入氏の立場なら、このTomson版も当然別のものとし て扱うべきであり、そうすると「エリザベス朝時代(1558-1603)には新たな聖書は三種類しか出されていない。」という羽入氏の主張はそこでも自己 矛盾を起 こしてしまいます。いずれにせよ、1次文献を十分調査していないのは、ヴェーバーでなく羽入氏の方であるのは明らかです。

 結論として、
(1) ヴェーバーは蔵書5万冊という当時のハイデルベルクの今日に比較すれば劣悪な研究環境で研究を進めており
(2) さらに当時は、英訳聖書のオリジナルを見ることは非常に困難で
(3) それにも関わらず、今日の聖書学者ですらほとんど参照していないような王室専用の聖書の類まで調査しており
(4) 当然のことながら、OED以外の英訳聖書の資料も参照している(OEDの文献表にも、本文中にもこの「Barker版のラテン語からの英訳聖書」は載って いません)
ということが言えるかと思います。我々は、この「知の巨人」にもう一度帽子を取って敬意を表すべきでしょう。


  次にシュルフター教授との面会についてです。教授は学生と の面談が詰 まっているお忙しい中、1時間ほどの時間を割いてくださいました。この場を借りて改めて感謝申し上げます。
残念ながらドイツ語の聞き取り力もかなり落ちていたので、教授の話されることの半分くらいしか把握できていませんでした。そこで、帰国後、私なりに聞き 取ったことを以下のようにまとめて、再確認をお願いしました。

・研究者はすべての1次文献を参照することなど、まず不可能であり、そのことで誰もヴェーバーを非難することはできない。
・またヴェーバーの資料の扱い方は、あくまで彼の関心に沿った一面的なとらえ方であるが、そのことは彼自身がきちんと説明しているし、それを問題視するの は 間違いだ。
・羽入氏の論文は社会学雑誌に載っていたのを記憶はしている。羽入論文を採用した雑誌の編集部に問題があると思う。
・ヴェーバーが倫理論文を書いていたころは、彼は大学を休職していたし、ハイデルベルクを離れてマリアンネとイタリアを旅していたりした。したがってハイ デルベルク大学の研究環 境=倫理論文の研究環境でないことには注意すべきだろう。
・書籍による研究よりも、ヴェーバーにとっては、当時のハイデルベルク大学のE・トレルチ他との「知的サークル」のつきあいが、研究環境としては重要だっ たで あろう。
・羽入本のようなものは、こちらが騒げば騒ぐほど、かえってその本を有名にしてしまうところがあって痛し痒しですね。
・倫理論文の文献については、マックス・プランク研究所のLehmannとMattisonが詳しい。まだ公にされたものはないが、必要なら問い合わせて みるといい。
(→これは帰国後の調査で、若干シュルフター教授の勘違いがあり、1993年に、Hartmut Lehmann and Guenther Roth,ed,Weber's Protestant Ethic-Origins,Evidence, Contexts, Cambridge Univ.Press, 1993 として公刊されていました。現在取り寄せ中です。)
・折原氏がこの論争で研究を妨げられていることはお気の毒です。

それに対し、教授が改めてコメントを加え訂正していただいたのが、下記のメールです。(2004年10月9日受信)

Sehr geehrter Herr t-maru,

ich danke Ihnen für Ihre Mitteilung über das Ergebnis Ihres Besuches an der Universität Heidelberg, möchte aber zur Klarstellung unseres Gesprächs Folgendes bemerken:

 1. Man muss zwischen "Betrug" und "Irrtum" unterscheiden. Betrug liegt dann vor, wenn ein Autor vorsätzlich Quellen fälscht oder seine Leser in anderer Weise bewusst hinters Licht führt. Ein Irrtum liegt dann vor, wenn ein Autor Quellen falsch interpretiert oder aber für sein Thema wichtige Quellen übersieht. Irrtümer unterlaufen allen Wissenschaftlern, deshalb ist der wissenschaftliche Fortschritt abhängig von dem Wechselspiel zwischen Vermutung und Widerlegung (conjections und refutations). Dass ein Autor eine Auffassung vertritt, die sich später als irrtümlich erweist, ist das Normalste in der Wissenschaft. Dass man zwischen Betrug und Irrtum zu unterscheiden weiß, gehört zu den elementarsten Kenntnissen eines jeden ernstzunehmenden Forschers. Dass dies der von Ihnen kritisierte Autor offenbar nicht weiß, spricht nicht gerade für ihn.

2. Weber hat gegenüber den Narrativisten in der Geschichtswissenschaft, also gegenüber jenen, die glaubten, man könne vollständige Beschreibungen in Gestalt von Erzählungen geben, in aller Schärfe betont, dass wissenschaftliche Erkenntnisse auch in der Geschichtswissenschaft nur unter speziellen einseitigen Gesichtspunkten möglich sind, die durch Wertbeziehungen konstituiert werden. In diesem Sinne verstand er seine Studie über den asketischen Protestantismus von Beginn an als einseitig. Diese Einseitigkeit schlägt sich natürlich auch in der Auswahl des Stoffes nieder. Dies nicht zu berücksichtigen zeigt, dass derjenige, der dies als Kritikpunkt ins Feld führt, die Webersche Methode nicht verstanden hat.

3. In der Zeit von 1898/99 bis zu Beginn des Jahres 1904, in der Max Weber aufgrund gesundheitlicher Probleme praktisch arbeitsunfähig war, hielt er sich immer wieder außerhalb Heidelbergs auf, u.a. nahezu ein ganzes Jahr, zusammen mit seiner Frau, in Italien. Es ist deshalb völlig unklar, wann er welche Bücher für welche Forschungsinteressen las und vor allem, wo er dies tat. Zudem liegt zwischen der Veröffentlichung des 1. Teils der Protestantismusstudie und dem 2. Teil seine Amerikareise, die er nicht zuletzt dazu benutzte, auch Literatur für den noch nicht veröffentlichten Teil in mehreren College-Bibliotheken einzusehen. Man muss also bei der Frage, welche Quellen er tatsächlich im Original benutzte, vorsichtig sein.

4. Niemand, der eine größere, zumal vergleichende Studie schreibt, ist in der Lage, nur Quellen aus erster Hand zu benutzen. Immer ist man auch auf Gesamtdarstellungen anderer angewiesen. Dies galt auch für Weber, etwa wenn er sich auf Gesamtdarstellungen von Theologen stützte. Zudem gab es in Heidelberg schon vor der Jahrhundertwende einen regen intellektuellen Austausch, z.B. zwischen Ernst Troeltsch, Georg Jellinek und Max Weber, der sich dann nach der Jahrhundertwende durch die Gründung des Eranoskreises noch verdichtete. Auch dies muss man, wenn man die Weberschen Studien richtig einschätzen will, berücksichtigen.   

5. Die Historisch-kritische Max Weber-Gesamtausgabe wird demnächst die ursprüngliche Studie über die Protestantische Ethik zusammen mit den Antikritiken in einer kommentierten Ausgabe präsentieren. Dabei wird in jedem einzelnen Fall nachgewiesen, auf welche Quellen sich Max Weber stützte.
Ich bin ziemlich sicher, dass sich dann der Angriff des japanischen Kollegen auf die wissenschaftliche Seriousität Webers als völlig abwegig erweisen wird.

Ich wäre Ihnen sehr verbunden, wenn Sie Ihre Mitteilungen auf der Homepage entsprechend korrigierten.


Mit freundlichen Grüßen
Ihr Wolfgang Schluchter


P.S. Der Aufsatz von Herrn H., den Sie mir zeigten, wurde in der Zeitschrift für Soziologie veröffentlicht, nachdem er von der Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie abgelehnt worden war, Die Zeitschrift für Soziologie ist aber eine seriöse Zeitschrift, die den Aufsatz immerhin so interessant fand, dass sie sich für die Publikation entschied. Wir fanden dies nicht!

(日本語訳:文責は筆者)

親愛なるt-maru、

ハイデルベルク大学訪問の成果について連絡していただき感謝します。ただ、我々が話したことを明確にするために、次のようにコメントします。

1. 「虚偽」と「誤謬」は区別しなければいけません。「虚偽」とは、著者が故意に資料を改竄するかあるいは読者がその資料を間違って理解するように導くことで す。それに対し「誤謬」とは、著者が資料を間違って解釈するか、あるいはその著者のテーマにとって重要な資料を見逃すことです。誤謬はすべての研究者が経 験することであり、それ故に学術というのは、推論とそれに対する反駁(英語の conjection と refutations)の繰り返しによって進んでいきます。ある著者がある見解を支持し、後にそれが誤りと証明されること、これは学術の世界では日常的 なことです。虚偽と誤謬の違いを理解することは、真剣に学問に取り組む研究者の、基本的な知識の一つです。あなたが批判している著者が、このことを明らか に理解していないのであれば、なにをか言わんや、です。

2. ヴェーバーは、歴史学者の中の記述主義者、つまりある歴史個体の完全な叙述というものが可能であると信じている者に対し、次のような辛辣な批判を加えてい ます。つまり、科学的な認識というものは、歴史学においてもまた、ある特別な一面的な重み付けによってのみ可能になるのであり、その重み付けはさまざまな 価値の相互関係によって作り出されているのであると。この意味において、ヴェーバーは彼の禁欲的プロテスタンティズムについての研究を最初から一面的だと 理解していました。こういった一面性は、当然の事ながら、資料の選択においても現れてきています。ヴェーバーの方法論を理解せず、こうした批判を持ち出す 人には、これらの事情を考慮すべきことがわかっていないのです。

3.1898、99年から1904年の初めまで、つまりマックス・ヴェーバーが健康上の問題で事実上働くことができなかった時、彼は再三再四ハイデルベル クを留守にしています。特にほぼ1年近く妻のマリアンネと一緒に、イタリアに滞在しています。それ故、いつ、どんな書籍をどのような研究上の関心で彼が読 ん だのかは、まったくもって不明であるし、とりわけどこでそれをしたかは全然わかりません。さらには、プロテスタンティズム研究の第1部と第2部の出版の間 に、彼はアメリカを旅しています。ヴェーバーはその旅において、まだ公刊されていなかった研究のために、多数の(アメリカの)大学図書館を訪問し、そこの 資料を調査し活用しています。これらの事情から、ヴェーバーが最初にどのような資料を利用したのかという問いに対しては、慎重であるべきです。

4.範囲の広い、とりわけ比較(文化、社会)的な研究書を書く者にとって、すべての資料を直接に利用することなど不可能です。そういった研究では、常に他 人の手による概説的な叙述に頼ってきました。このことはヴェーバーにもあてはまり、例えば、神学者による概説書に依拠したりしています。それに加えて、ハ イデルベルクでは、20世紀が始まる前に既に、エルンスト・トレルチ、ゲオルグ・イェリネックそしてマックス・ヴェーバーの間での活発な知的交流が行われ ていました。それは20世紀になってから、エラノス・サークルの創立という形でさらに発展したものとなりました。こういった事実も、ヴェーバーの研究を正 当に評価する時は、考慮すべきです。

5.歴史的な史料批判が加えられたマックス・ヴェーバーの全著作が、批判に対する反批判の注釈付きで、もうすぐ出版され、その中でプロテスタンティズムの 倫理に関しての、萌芽的な研究について明らかにされるでしょう。その中では、すべての個々の事例について、ヴェーバーがどのような資料に依拠したかが検証 されるでしょう。私は日本の研究者による、ヴェーバーの学問上の真摯さに対する攻撃が、それによって、まったく的外れなものであると証明されることを確信 しています。

上記のように、あなたのホームページ上での報告を訂正していただけると幸甚です。

敬具

ヴォルフガング・シュルフター

p.s.
あなたが教えてくれた羽入氏の(ドイツ語)論文は、「社会学雑誌」に掲載されました。彼はまず「ケルン社会学・社会心理学雑誌」に原稿を持ち込んで掲 載を断られ、その後「社会学雑誌」に持ち込んだものです。「社会学雑誌」はとはいえまともな雑誌ですが、その論文をともかくは興味深いと判断し、掲載を決 定したの でしょう。我々はそうは思っていませんが。

(大学訪問時だけでなく、上記のように詳細な補足説明まで寄稿していただいたシュルフター教授に、改めてここに厚く謝意を表する次第です。)

  最後に、帰りの飛行機の中で見つけた、思いがけない「資 料」について 報告して、私の論考を終わります。 PHP研究所の「山本七平賞」の審査員代表である、養老孟司氏のエッセイです。なんと、成田に着陸寸前に、偶然手に取ったJALの機内誌SKYWARDの 2004年9月号にそれは載っていました。その、「人に『教える』ということ」というエッセイによると、マックス・ヴェーバーは「学界の定説でな いことは、 教壇で話してはいけない」と説いているそうで、それについて養老氏は、昔のドイツはそうだったのか、とずいぶん引っかかったのだそうです。それでヴェー バーの考え方に反撃を加えた[sic]羽入本を読んで痛快だったのだそうです。つまり、養老氏の直感的疑問が当たっていた、ということらしいです。
  山本七平賞をもらった側ももらった側ですが、賞を出す側も出す側で、その低い知的水準を見事に暴露したエッセイでした。これをたまたまドイツ帰りの飛 行 機の中で発見するとは、まさに「天網恢々」なのかもしれません。(私もフランクリンなみに、天啓や摂理というものの存在を信じるようになってきました。 {笑})ここを読まれている方には、言うまでもないでしょうが、ヴェーバーは「学界の定説でないこ とは、教壇で話してはいけない」などとは、一度も言っていません。ヴェーバーは、当時の講壇社会主義者の連中が、大学の教授という強い立場を利用して、学 生 に自分の政治的信条を説くのを厳しく批判しました。このことを養老氏は誤解したものと思われます。(1)ヴェーバーが書いたものを自分勝手に誤解し(2) なおかつそのことでルサンチマン感情を抱き(3)その感情を羽入本のデタラメな内容で癒す、という意味で、養老氏も羽入氏とまったく同類だと思われます。 しかも、社会科学の理解、と言う意味ではさらに低レベルです。おそらく大学の一般教養の社会学で、こんな内容の期末レポートを書いても、まず単位をもら えないでしょう。ほとんど紹介する価値もないエッセイでしたが、羽入サイドからの反応として貴重は貴重なので、あえて本論考の末尾で紹介した次第です。

以上

脚注
1) F・W・グラーフ、「ハイデルベル クにおけるアングロサクソン研究の伝統」、聖学院大学出版会、深井智朗、F・W・グラーフ編著「ヴェーバー・トレルチ・イェリネック ハイデルベルクにお けるアングロサクソン研究の伝 統」、 2001年に収録を参照。
2) Alfred W. Pollard, "Records of the Englsih Bible, the documents relating to the translation and publication of the bible in English, 1525-1611",Oxford University Press, 1911
Reprint: Wipf and Stock Publishers, 2001
3) 田川建三、「書物としての新約聖書」、勁草書房、1997年
4) Barker親子については、”Robert Barker, Printer to Queen Elizabeth I”などを参照。
5)
"The Geneva Bible" を参照。


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