日本語における長音符の起源



 ポーランド語人姓の「〜スキ/〜スキー」「〜ツキ/〜ツキー」問題を調べていて、日本語の長音符「ー」が気になって来た。世界の言語で、私が多少とも 囓った範囲では、専用独立の文字としての長音記号を持っているものは珍しいと思う。長音大好き言語としては、ドイツ語が挙げ られる。ドイツ語の場合、長音は wie、Liebe のように二重母音で表すか、あるいは ohne、wahr のように、母音の後に h をつけて表す。h はそれ自体、文字として発音される場合もある(例:hoffen)ので、長音専用の記号とは言えない。また、チェコ語のように、アクセント記号が長音記号 として 使われている場合もあるが、あくまで補助的な記号である。それ以外、たとえば英語では h を長母音の印として限定的に使う以外は、原則長音か短音かの区別は表記からはわからない。韓国語でも、姓の「李」さんは、私の体験では通常長母音で あるが、
長音を明示するハングル表記は存在しないため、カタカナ書きの場合でも、「イ・ジョンヒョン」のよ うに、短音として書かれることが多い。ローマ字表記の場合も、Yi、Li、Yee、Lee など長短が入り乱れている。

 これに対して、日本語では、一つの文字として長音符「ー」を持っている。世の中には、小林秀雄の「モオツアルト」 のように、長音符を使わない表記を好む人もいる。確かに必要不可欠な文字ではない。また、かな書きでは「とーきょー」「おもー」のような、長音符を使った 表記は限定的にしか使われていない。この長音符というものは一体いつ頃から日本で使われているのだろうか?

 東京堂出版の国語学大事典によると、

(1) 「阿阿」のように、母音(万葉仮名)を重ねてさらに「音引」という注をつけて、長音を表す表記法は、すでに古事記で使われている。

(2) 「ー」という記号が最初に文献に現れるのは、1167年の「山槐記」ということだが、写本がたくさんあって、すべてに統一して出現するわけではないらし く、また本当に長音記号の意味で使われているか怪しい。「神祇権大副ー朝臣」といった使われ方のようで、カタカナ表記と一緒に使われているわけではな い。

(3) はっきりと、長音の意味で「ー」を使ったと認められる最初の人は、新井白石で、イタリア人宣教師のシドッチを取り調 べて まと めた「西洋紀聞」(1715年頃)に登場する。「シローテ」(シドッチのこと)、「ローマン」などで使われている。

 (3)は右の直筆の画像を見てもらえばわ かる が、現在のように行の真 ん中ではなく、やや右よりに書かれていることに注目すべきである。実は、白石は別の文献(ヨハンバツテイスタ物語)では「アリツテメテイカ」(算術)、 「レリ カ」(修辞学)といった風に「引」の漢字を長音記号とした表記を使っている。(原文縦書き) この「引」の字は、上記の古事記などでの「音引」という注釈 の「音」の字が省略されたものらしい。さらにその「引」の字の篇(へん)を省略して、旁(つくり)の部分だけ にしたのが 長音符だ、ということらしい。日本語のカタカナは漢字の篇や旁の一部を取ってきて作られたものが多い。(例:伊→イ)長音符もこれと同じで、成立起 源から見るとカタカナの一種であると言える。

 ただ、白石の書は、キリスト教の教義が記されていたため、一般には公開されるのはかなり後になってからである。にも関わらず、白石式の長音表記が蘭学中 心に広まっていったのは、この表記が白石の発明ではなく、当時既に一部の蘭学者などでの慣用だったのかもしれない。


西洋紀聞

 長音符「ー」が漢字「引」の旁から来ている、という意識はその後も強く残ったらしく、横書きの時に、たとえ ば「インタネッ ト」のように長音 符だけは縦に書くスタイルが、その後も長く行われている。明治時代でも夏目漱石がメモ書きでこのスタイルを使っているし、近いところでは、昭和21年の岐 阜タ イムズという新聞記事でもまだこのスタイルが残っていたらしい。(参照:岩波新書 屋名池誠著 「横書き登場 −日本語表記の近代−」)ただ、現代式に 「ー」と横書きにするのも、すでに江戸時代の辞書の表記に登場している。

 長音記号「ー」は、白石以後、主に蘭学を中心に広く使われ始めた。(蘭学=オランダの学問、ということで長音の多いオランダ語がこれに拍車 をかけたのではないかと想像する。)明治時代になると、カタカナ書き以外でも「おーい」のようなひらがな文での長音符の使用例が見つかるが、これがいつ始 まったかはまだ調査中である。

(2003年11月25日)


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